「院に行くの?もったいなくない?」
院進を決めたとき、何度この言葉を聞いたかわからない。もったいない、つまり金銭的に損だという指摘である。働けば稼げる年齢で学費を払って学生を続けるのだから、言いたいことはわかる。わかるが、誰も実際に計算していないのも気になっていた。
というわけで今回は、理学療法士の大学院進学が金銭的に「損」なのか、生涯年収ベースで本気で計算してみる。私は修士2年で博士進学予定、つまり当事者ど真ん中だ。自分の人生の損益計算書を書くようなものなので、わりと緊張感がある。
先に断っておくと、数字は国立大の標準額や公的統計をもとにした概算だ。地域や施設で全然変わるので、あくまで「ざっくりの構造」を掴むための計算だと思って読んでほしい。
まず、院進の「コスト」を全部出す
コストは大きく2つ。「払う金」と「稼げたはずの金」だ。
① 学費(払う金)

国立大学の標準額で計算する。入学金が約28万円、授業料が年間約54万円。
- 修士2年:28万+54万×2年 ≒ 約136万円
- 博士3年:28万+54万×3年 ≒ 約190万円
修士から博士まで通すと、学費だけで約326万円。私立ならこの1.5〜2倍を見ておく必要がある。
② 逸失収入(稼げたはずの金)

ここが本丸だ。学部卒でそのまま就職していれば、理学療法士の初任給ベースで年収350万円前後は稼げていたはず。5年間で約1,750万円。これが「院に行ったせいで稼げなかった金」である。
ただし、院生は無収入ではない。私の場合、病院でのPTパート(週2)、居酒屋バイト、学部生授業のTAを合わせて月12〜13万円ほど稼いでいる。年間約150万円、5年で約750万円は回収できる計算だ。
つまり実質の逸失収入は 1,750万 − 750万 = 約1,000万円
コスト合計は以下
学費326万+実質逸失収入1,000万 = 約1,300万円
これが博士まで行く場合の「院進の値段」だ。家が一軒買えないこともない金額である。数字にすると、周囲が「もったいない」と言うのも理解できる。
院進の「リターン」

では、この1,300万円は回収できるのか。
回収を考える前に、進学しなかった場合の収入カーブを直視する必要がある。理学療法士の平均年収は430万円前後と言われていて、これは全産業平均と比べて特別低いわけではない。問題は昇給の緩さだ。初任給はそこそこでも、その後のカーブが平坦で、臨床一本だと年収500万円の壁がなかなか分厚い。役職に就いても劇的には変わらない。
つまり「進学しないルート」の生涯年収は、比較的予測しやすく、そして伸びしろが限定的だ。
リターンその1:院卒の初任給加算

まず修士卒には、学部卒より高い初任給という直接的なリターンがある。一般企業だと修士卒の初任給は学部卒より月1〜2万円ほど高く設定されているのが相場だ。公務員系の給与表でも、院での在学年数を職歴のように換算して上乗せする仕組みが一般的である。
仮に月1万円の差が定年まで維持されるなら、35年で400万円超。修士の学費136万円は理屈の上では回収できる。

……が、ここで医療業界の現実を直視しなければならない。理学療法士の世界では、院卒加算が「ない」職場が珍しくない。修士だろうが博士だろうが学部卒と同じ給与テーブル、というケースは普通にある。公立病院などは加算があるが、あっても月数千円程度のことも多い。つまり院卒の初任給加算は、一般企業なら学費回収の柱になるが、PT業界では「あればラッキー」程度に見積もるのが誠実だ。就職先の給与規定を先に確認する価値は大いにある。
医療業界特有の事情ですね。理工学系なら収入アップに直結しますが。世知辛い・・・
リターンその2:大学教員ルート

一方、博士号を取って大学教員ルートに乗れた場合。助教で年収500万円前後から始まり、准教授で700万円前後、教授まで行けば900万円超も見えてくる。臨床PTとの年収差をならして年150万円と置くと、30年で約4,500万円の差になる。
1,300万円のコストに対してリターン4,500万円。ポストに就ければ、院進は金銭的に「得」という計算になる。
ただし、その道はいばら。
博士号取得者に対してアカデミアの椅子は明らかに足りていない。任期付きポストを転々とする可能性も、結局臨床に戻る可能性も普通にある。臨床に戻った場合、博士号が給与に反映される職場は限られていて、最悪「5年遅れて同じ給与テーブルに乗る」シナリオもありうる。その場合は計算上、約1,300万円のマイナスがほぼそのまま確定する。

つまり院進は、期待値で語れるような安定した投資ではなく、経済面でみれば「賭け」に近い。当たれば大きいが、外れたときの損失も明確。S&P500に積み立てるのとはわけが違う。
リターンその3:DC1が取れたら計算が壊れる(良い意味で)

さらに、フルタイムで博士課程に進む場合、学振特別研究員(DC1)に採用されると月20万円の研究奨励金が3年間出る。合計720万円。これが入ると博士課程の逸失収入はほぼ消滅し、院進の総コストは1,300万円から500万円台まで圧縮される。ただし採用は狭き門で、皮算用に組み込むのは危険だ。そしてもう一つ重要な制約がある。DC1は専業で研究する人のための制度なので、次に書く「働きながら博士」ルートとは基本的に両立できない。
第3のルート:「社会人大学院生」という解

ここまでは「学生を続けるか、就職するか」の二択で計算してきた。だが実は第3のルートがある。働きながら博士課程に通う、社会人大学院生だ。
そして白状すると、私自身、来年あたりからこのルートに乗るつもりでいる。なのでここからは他人事ではなく、自分の人生設計の計算である。
実際、私が知る限りほとんどの博士課程の学生は社会人だ。これは私の学科の特性と言える。
社会人大学院生ルートの計算は、衝撃的なほどシンプルになる。
理学療法士としてフルタイムで働きながら博士課程に在籍する場合、逸失収入が(ほぼ)ゼロになる。給与をもらいながら学位を目指すのだから、コストは博士3年分の学費、約190万円だけ。フルタイム進学の1,300万円と比べると、桁がひとつ違う世界だ。
私の場合で言えば、仕送り10万円は社会人になった時点でゼロになる見込みだが、それは給与で置き換わるので家計は崩れない。むしろ収入は学生時代より増える。多くの大学には長期履修制度といって、在籍年数を延ばしつつ授業料総額は標準年限分のまま、という仕組みもある(条件は大学によるので要確認)。金銭面だけ見れば、社会人大学院生は博士号の最安購入ルートと言っていい。

ただし、支払うのは金ではなく時間と体力
うまい話には裏がある。社会人大学院生が金の代わりに支払うのは、時間だ。
日中は臨床、夜と休日に研究。データ収集も論文執筆も、本来フルタイムの学生が昼間にやることを、生活の余白に詰め込むことになる。標準年限の3年で出られず4年、5年とかかるケースも珍しくないと聞く。そして前述の通りDC1は使えない。月20万円の奨励金と研究に没頭できる環境を捨てて、給与と引き換えにする取引である。
つまり昼間学生の博士課程と社会人博士は、「金で時間を買うか、時間で金を買うか」の選択なのだ。
- 昼間学生としての博士課程:コスト大(〜1,300万円)。ただしDC1が当たれば激減。研究時間は潤沢
- 社会人博士:コスト極小(学費190万円のみ)。ただし時間と体力を差し出す。DC1は不可
私のプランは、DC1を出すだけ出して、通ればフルタイム、ダメなら社会人大学院生、という二段構えだ。どちらに転んでも博士には行く。行き方の問題である。
だけど、社会人学生は若い体力のある時期にしか取れない選択肢ともいえる。きついのは目に見えているが、この選択肢は明確に賞味期限がある。そのあたりも考えておく必要があると思う。
それでも私が進学する理由

こう見ると、理学療法学の博士って夢ナイなーと思えてならない。低リスクで経済的恩恵を得たいなら、初任給が上がる修士までで卒業してしまえばいいと思う。
じゃあなぜお前は博士に行くのか、という話になる。
身も蓋もないことを言うと、金銭だけで決めていないからだ。私が研究をしている分野の問いを突き詰めたいという気持ちが先にある。
そのうえで、計算は計算でちゃんと効いている。私の実際のプランで計算し直すと、修士は昼間学生として通ったので学費136万+実質逸失収入400万で約536万円。博士を社会人大学院生でやれば追加コストは学費の約190万円のみ。合計約730万円。冒頭の1,300万円という数字は、ルート選択でここまで圧縮できる。
730万円は「研究を人生に組み込む権利」の値段だと思っている。高いか安いかは、その問いに何を見出すか次第。ただ、勢いだけで進学するのは違うとも思っている。だからこそ今回計算した。数字を直視した上で、それでも行きたいなら行けばいい。それが当事者としての結論だ。
総括

- 昼間学生で修士+博士に行く総コストは概算で約1,300万円(学費326万+実質逸失収入1,000万)
- 院卒の初任給加算は一般企業なら回収の柱になるが、PT業界では加算ゼロの職場も多い。過度な期待は禁物
- 大学教員ポストに就ければ生涯で4,000万円超のプラスもありうるが、就けなければ大幅マイナス。賭け
- **社会人大学院生ルートならコストは学費190万円まで圧縮できる。代わりに支払うのは時間と体力、そしてDC1の権利
- 私の実プラン(昼間学生で修士+博士は社会人)なら総コストは約730万円
- 結論:「損か得か」はポストとルート選択次第。数字を直視した上で、金銭以外の理由を持っている人だけが行けばいい
「もったいなくない?」への私の答えはこうだ。もったいないかどうかは、ルートの選び方と、これからの自分次第である。……と言いつつ、来年から臨床と研究の二刀流生活が始まると思うと、計算よりもまず体力が心配になってきた。続報は社会人大学院生になってから書く。書けると願う。
追記:学校ごとに独自に設定されている優遇制度や、民間の奨学金も調べておくといいと思います。そもそも申し込む人がすくない(というか博士課程に進学する人が少ない)場合も多く、ねらい目です。頑張りましょう。
【損益計算】大学院進学は金銭的に「損」なのか、生涯年収で本気で計算してみた【理学療法士】
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